復興支援本部情報

あの9月1日に・・・
〜復興支援本部「福島第一原子力発電所半径20Km圏内地区を視察」から〜

 仙台は、ほとんど雲のみられない快晴でした。
 福島の浜通りへと行く私の心も変な話少しウキウキしたところもありました。私は父の仕事の都合で福島市に2年ほど住んでいました。その頃の松川浦のことを思い出し、あの美しかった海や砂浜はどうなっているのかな…など…子供の頃、初めて見た海でした。強く大きな波に驚き泣いてばかりいて海に入れずじまいで、波打ち際で遊んだだけだったようです。父にはその後もからかわれました。良い海でした。

 
写真:小高駅に置かれているノート「おだかに思う」

様々な方が想いを綴られています。
中には地元住民と思われるであろう方からの
こんなメッセージも・・・
「ボランティアの皆様、ありがとうございます。
バスに乗って見学に来る人、下りて見て感じてください。
声をかけてください。
聞くだけでも、ボランティアになります。
黙って通り過ぎるのは見物だから、
せめて感想をノートに書いてください」と。
(メッセージは要約しています)

 松川浦へ行くプログラムは、なかったのですが、相馬市の「こころのケアセンターなごみ」(※)に予定よりも早く着きそうだったので、松川浦へちょっと寄り道してくださいました。海はどこまでもきれいでした。浜には、瓦礫の山と時計の止まった監視塔が傾いて建っていました。しかし、その下には、犬の散歩をする人、じっと海を見つめる人、話をしている人…そこには人の営みがありました。津波で破壊された所なのに、岩手や、宮城で見た光景とあまり変わりのない様子になぜか安心していました。ここもまた、いつの日か復興するだろうと…その時はこれから、とんでもない光景を見なくてはならない、そんな時が訪れようとは考えてもいませんでした。

 「こころのケアセンターなごみ」の仲間に案内されて、南へ向けて走るバスの窓には少しずつ違和感のある光景が目に飛び込んでくるのです。

   
写真:「必ず小高で復活します!!」の
看板をだしているお店
写真:あの日、普段通りの通学をしたであろう
高校生たちの自転車もそのまま
人気の消えた小高駅

 次第に田はなくなり畑はなくなり、青や緑、赤や黄色に彩られた普通の土地から褐色の枯れた大地へと…所々にパトカーも…そして夜間立入禁止地区へと、夜、人の住む事のできない地域へと…かつて小高城がそびえ、相馬盛胤が住んだ街へと…その街は破壊されてはいませんでした。家もあり、スーパーも病院もあり、建設途中の家もあり、道路工事中のところもあります。当たり前の何処にでもある普通の街がありました。でもどこか異様です。テレビでは、福島原発の様子がよく映ります。そこには防護服を身に付けた作業員が映し出されています。原発のまわりにも人の息吹はあるのに…この街には人がいないのです。犬や猫の姿も見つけられません。動くものがほとんどないのです。

 津波により破壊された街にも人が集い復興という名のもとに忙しそうに動いています。建物も無く、瓦礫だらけの街にも人はいるのです。でもそこに街は残っているのに人がいないのです。空虚で怖くなりやるせないような、もどかしいような、どうしたらいいのかわかりません。どう表現したらわかってもらえるのでしょうか?…そんな恐ろしい事がこの街に起こったのです。原発にもっと近い街は死んでいるのでしょうか?

 原発の影響は簡単に癒えるものでもないし、こんな現実離れした、世界を創ってしまうほど恐ろしいものでした。小説の世界がここにあるのです。
 でも、時間だけは、コチコチと時を刻んでいました。この街はいつまで、この時間の中を漂っていなければいけないのでしょうか?誰がこの街を動かすのでしょう。いつになったら、この街に人が住み、明るい声が流れ、子供たちが遊びまわれるのでしょうか?
 街は壊れていないのに、街は死んでいました。私は何もできません。とても無力だということを感じざるを得ませんでした。
 これが、私の9月1日でした。
 一度行って見ませんか!!

 
写真:「なごみ」前にて。

※正式名称は、相馬広域こころのケアセンターなごみ(http://soso-cocoro.jp/)。仮設住宅や借り上げ住宅で生活 される被災者、相双地域で生活する精神疾患当事者やご家族等、地域住民のこころの健康を守り増進する為の事業を行っています。運営母体であるNPO法人「相双に新しい精神科医療保健福祉システムをつくる会」は、ご賛同・ご支援いただける方(賛助会員)を募集しています。

(公社)日本精神保健福祉士協会 青森県支部長 石田 康正


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