復興支援本部情報

 2013年元日に想う ― 駅伝に終わりはない ―

 復興支援本部員によるWEBリレーメッセージ。2013年1月担当を託されました。「年頭のメッセージになるんじゃけどのぉ・・・」と悩みましたが、「元日生まれじゃし、自分で誕生日祝いをやりんさい」とのご配慮であると、私にしては意外に前向きに受け止めています。文才なく、ただただ想うがまま綴ることにいたします(広島弁を多用します)。

 2012年12月31日大晦日。老いたる母と過ごしています。「こりゃ!仕事は終わりにせいよ!何があるんじゃ?」と問う母に、「それがのぉ、たいせつな人に手紙を書くのが遅うなってしもうて」と応えると、母は、「お前はいつも忙(せわ)しゅうしとんのぉ。忙(せわ)しいというんは『心』が『亡ぶ』と書くじゃろ。たいせつな人には手書きにせい!」と説教を受けています。鍋をつつき、酒を飲み、TVを見ながら・・・もう少しで2012年が終わります。

 2011年4月以降の本協会災害支援活動。襷を受け継ぐ形で2012年4月復興支援本部が始動いたしました。早々に実務者会議が開催され、みやぎ心のケアセンターの要請に応える形で人材バンク登録を願い、7月2日〜12月28日の期間、構成員様が宮城県に赴きました。渡部本部員(みやぎ心のケアセンター)は日々刻々と変化する状況の中、各自治体との連絡・調整。派遣構成員を受け入れる各自治体側のスタッフの皆様。構成員様ご本人のみならず、ご家族、お職場の皆様のご理解に心より感謝いたします。
 人材バンク登録、及び派遣構成員様への連絡等、私なりの精一杯で臨みました。お会いしたことのない構成員様が多い中、大緊張しながらも、図々しく電話やメールを差し上げると、皆様快く応対してくださいました。また、2011年度支援活動に赴かれた方々、本協会委員会活動等で長年お付き合い下さった方々、先輩や友人よりあたたかいメッセージを頂いたことが大きな力となっています。忝いことです。
 当初はみやぎ心のケアセンター(以下、センター)にて仙台駅近辺のホテルを確保。ホテル近くのセンターを拠点とし、名取市、岩沼市、仙台市、松島町、塩竃市、大和町、東松島市、女川町などに移動しての活動。9月17日以降はセンターにて石巻駅近辺のホテルを確保。東松島市、女川町に派遣されているセンタースタッフを補助する位置づけにて活動を行いました。併せて、復興支援本部はレンタカーを同期間(9月17日から12月29日)までを借り上げ、派遣構成員様の移動等に活用していただきました。
 何度か宮城県にお邪魔していることもあって、仙台駅界隈の地理、派遣先自治体までのアクセスと時間等のイメージがあったことは幸いだったと思います。連絡等行う中で、「こりゃ、宮城じゃなかったら俺にはできん役目じゃ」と感じました。派遣構成員様の実際のご活動がどんな感じであるのか?お話を聴かせていただくことで、私なりにイメージしてはみるものの、「直接会いたいのお」という念が強まって仕方ありません。2011年4月から2012年12月。襷を渡し受け取りつないできた事実。つどいたいです。
 9月17日から石巻のホテルになってから、なぜか私の心は・・・うまく表現できませんが、石巻で聴いた言葉でいうと、例えば「胸がサワサワする」感じになってしまいました。「このルートでいくと、ここが混雑するけれど、40分あれば大丈夫。もう一つルートはあるけれど、お勧めはできない。」「コインランドリーはあそことあそこ。買い物しながらでもいいし、夜も明るいし食事もできる。」等々。そんなことを伝えながら、思っても仕方ないことなのです、思うものは想ってしまうのです。「今、どんなんじゃろか・・・」「行きたい・・・」そしてなぜか、「ことば」がみつからなくなり、黙してしまうようになった時期もありました。そんなとき様々な形で支えてくれるPSW。復興支援本部員から、「木村さん、仲間だよ。また来てよ〜」のお声掛け。長谷本部員(宮城)菅野本部員(福島)担当の東北復興PSWにゅうす発行作業。ていねいで配慮に配慮を重ねる取り組みに学ぶところ大です。そして、この東北復興PSWにゅうすへの反響。たくさんのメッセージは私にとって実に良いタイミングでした。本当にありがとうございます。

 地震はおさまりません。心配になります。「大丈夫?」という連絡は現地の皆様には迷惑なことになっている事でもありますが、構成員様にはとにかく連絡をいたしました。
12月7日17:18分頃三陸沖震源、津波警報・注意報。広島にいる私が慌てふためいても仕方ないのに、「がんばるなや!地震、津波・・・ええかげんにせい!」と緊張(妙だが憤りが混じる)が走りました。様々に迅速に連絡を行って頂いたり、情報発信を集めながらで、小関本部長代行より、「木村さん、とにかく今夜は寝よう」と伝えられ、私自身が安堵したのでしょう。ぐっすり寝てしまいました。携帯等通信機器はほとんど使えない中で、現地PSWから何らかの情報を発信してくださいます。そして、全国のPSWも情報を伝えてくださいます。教訓を活かす「何か」が本協会には芽吹いているのではなかろうかと想うのです。
 派遣構成員様と連絡をすると私自身がとても安心していました。「飯喰ってますか?」とか、皆様の地元の気候であるとか、名物の話とか、自分でも「なにやってんじゃろ?」と思いながらも、そこは皆様PSW。本当にありがたいと思います。なぜか広島つながりがあったり、中国・四国地方つながりがあったりで、かなりローカルな話で盛り上がったりもしました。これまで育てていただいた諸先輩方や友人が私のことを伝えてくださっていて、「つながり」とは不思議なものだけれど、「かけがえのない、たいせつなもの」と想い染みます。支援構成員バックアップ体制の一つとしての役目。当たり前ですが、何ができるでもないし、何かをしようともしていません。私自身の勉強。一所懸命にこれからも学ぼうと想います。
 もうひとつ、広島のレクリエーション協会等での古くからの友人たちが、「ワシらは知っとる者(もん)に託したいんじゃ!」と声をかけ続けてくれたこと。職場まで来てくれたりもし、コンサートやイベントに私を引っ張り出してくれました。関心を持つ市民から、「PSWってどういうお仕事?」「被災地ではどういう支援?」「このグッズは?」等々問われ、私たちの仕事を伝えることの大切さと、私に出来る小さな応援の方法を再確認しています。

 7月2日〜12月28日まで、移動期間を除き実活動日数147日。12月29日、派遣構成員様から「無事帰宅」という連絡を受け大きく息をつき安堵する自分がいます。
 「駅伝に終りはない」。襷はかならず「次」に渡されます。受け継ぐための準備を行います。さて、私たちはどんな準備を行っていけばよいのでしょうか。各々の地域の歴史や風土、文化。そのリズムとテンポ。方言のあたたかさと大切さ。2011.3.11まで、何度も何度も日本地図を見入ることはありませんでした。毎日、気象庁のホームページを確認するような習慣もありませんでした。「わからないけれど、向き合おうとすること」「想いを馳せること」「突きつけられ突き動かされる」「間違ってしまうから研鑽する」これが基本とずっと教えてきていただきました。PSWのアイデンティティーと、「一人称」としての私。是非とも全国の皆様の知恵を集結してほしいと願って止みません。

 時間は冷酷にしかも正確に刻み過ぎていきます。冬になれば広島もそれなりに寒く、寒ければ吐く息は「白」。東日本と寒さは異れど吐く息は同じ「白」。私たちは非力だけど決して無力ではないと想うのです。細くとも長く襷をつなぎたいと心から願います。

 とりとめもなく、想うがまま。こんな文章がWEBリレーメッセージとして全国に公開されるのか?とても不安です。
 そろそろ2013年がやって参ります。これより、54の歳を迎えます。

末筆に
 広島生まれの広島育ち。カタカナでヒロシマ・ナガサキ。50年は草木も生えないといわれました。二度と無きよう「ノーモア、ヒロシマ・ナガサキ」を教えられ育ち、そして長らく大きな差別を受けても参りました。しかし声をかけてくれた多くの方々に救われた事。そのご恩も教えられて生きてきました。私の場合「支援」ということには当てはまりません。阪神・淡路大震災の時は、岡山の先輩から、「とにかく準備して!」との声かけにただただ動いたに過ぎません。東日本大震災発災後、「ルートさえ確保すれば、ひょっとすると友人に会えるかもしれない」という邪心そのものでした。それ以上も以下もなく、それでいいと思っています。
 被爆者の老いたる母と被爆二世の私は、今を生きています。「今度は北海道に行くんか?」と母。「う〜ん。宮城じゃ」と応える私。とりあえず、北に行くことは覚えている様子。
 「ひょっとすると、友人に会えるかもしれない」それだけでも良いのではなかろうか。

2013年1月1日

社団法人日本精神保健福祉士協会 広島県支部 木村 雅昭


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