東日本大震災復興支援委員会 伊藤亜希子
昨年より委員会に参加させていただいております伊藤亜希子と申します。どうぞよろしくお願いいたします。東北に移り住み約5年半が経ちましたが、福島は今年の7月で丸2年になります。その前は、岩手県こころのケアセンターの釜石地域センターに勤務しながら、同時に、大槌町をフィールドとするNPO(認定NPO法人心の架け橋いわて)の活動コーディネイターも担っていました。大槌町には今でも一メンバーとして毎月支援に行かせてもらっています。
震災当時は都内の精神科病院に勤務しており、あの日は、東京駅近辺で会議に出席していましたが激しい揺れで中断し帰宅困難に陥りました。しかしそのことよりも職場から離れていたことと、名取市の親戚に連絡がつかないことに焦って公衆電話の前で右往左往した記憶です。多くの人がそうだったかもしれませんが、すぐにでも被災地に飛んでいきたい思いで熱くなった日々過ごしました。しかし病院派遣チームは「第一陣は男性職員のみ」で二陣以降は立ち消えになり、初めて被災地を訪れたのはゴールデンウィークに入る頃でした。多文化間精神医学会が主催する相馬市内の避難所の一つ「はまなす館」でのカフェプロジェクトに参加したのが初支援です。その後、病院の医師と共に相馬市公立病院を拠点とするこころのケアに参加し、避難所等への訪問活動を行いました。カフェプロジェクトに継続的に参加する中で、偶然岩手で働くお誘いを受け、2012年3月に移住して・・・・今日に至った次第です。思えば、被災地で活動をしたいという希望が叶い、熱い心で走り続けた年月でした。しかし果たして冷静なビジョンや計画性を持てていたかどうかは疑問です。当時も今も難しいなあと思うことは、「熱い心と冷たい頭をもち続ける」ことです。岩手に赴任した当初、役に立ち会いという思いが前のめりになり地元の支援者に負担をかけたことと思います。新人でもベテランでも、「外部から“良いもの”を持ち込む」ような姿勢は地元の人たちに受け入れられにくく、中長期支援になればなるほど、その土地の風土や文化を理解して地元に寄り添わなければ、前に進めないことを肌身で感じ冷静に実践するには時間がかかったと思います。これは「外部支援者」が多く感じるジレンマの一つではないでしょうか。
福島で現在、発災時避難区域に居住していた方々の“声”をひろう業務に携わっています。現在の居住環境や家族状況、年齢によって、発せられる思いは多種多様ですが、年を追うごとに目立つのは、故郷と家族と健康を同時に失っていく高齢者の悲痛な叫びです。
「避難解除され自宅に戻ったが、放射能のことで子どもも孫も遊びにきてくれない」
「車でなければ買い物にも病院にも行けない。高齢者だけでの生活ではこの先不安だ」
「都会の子どものアパートで世話になっているが、年金が少なくて、行くところもなく絶望的な思いになることが増えた」
「解除されても、荒れ果てた家にはイノシシやサルの集団が来てこわい」
「リフォームと自分が死ぬのとどっちが早いか考えてしまう」
「にぎやかに過ごしていた暮らしは二度と戻らない」
などの言葉が数えきれないほど見受けられます。もし、自分がその立場だったら、あるいは親がそういう状況にあったらと想像すると胸が締め付けられる思いです。故郷とは、代々受け継がれるこころの原風景だと思います。孫にとっては、野山を駆け回り、川や海の水を浴びて、遊び疲れたら祖父母の笑顔が迎えてくれて、とれたての野菜や果物をほおばる、そんな夏休みの夢やこころの拠りどころが奪われてしまいました。たとえ年金が少なくても、美しい自然に囲まれた家や畑があれば、心豊かな誇り高きじいちゃんとばあちゃんで居続けられた夫婦のはずでした。あの日から6年の歳月が流れ、「避難解除」の影には、健康を損ねがちな高齢者にとってあまりにも酷な現実が数多く存在していることをもっと知って欲しいと感じています。
ともすると埋もれてしまいそうなこれらの“声”に、PSWという立場でどのように向き合い、どのような方法で支援に活かすべきか、それを深く考えるのが現在の自分の役割ではと思うのですが。がむしゃらに走ってきた6年でしたが、今はちょっと立ち止まって、じっくり考えてみたい気持ちでいます。熱い心と、冷たい頭をもって。